蛇川のこと

最初に子供のころと両親のことを書くことにします。

私の田舎は群馬県太田市ですが、郊外に蛇川という小さな流れがあります。源流がどこかもよくわからないのですが、地図を見る限りでは、阿左美沼か生品神社あたりではないかと思います。蛇川は強戸や新野を抜けて藤阿久を通り、いずれ石田川と合流して刃水橋近くで利根川に注ぎます。今は川沿いが区画整備されて新しい市街になっていますが、公園が整備されています。西藤中央公園という名で、藤阿久の西という解り易さもさることながら、back numberさんの楽曲「西藤公園」(アルバム「逃がした魚」)で有名な公園のようです。

蛇川は当時通っていた中学校から、500メートルほど離れた藤阿久付近でも、川幅が6~7mくらいの小さな川です。その学校は宝泉中学校(現宝泉東小)で元々は新田郡宝泉村にあり、村は昭和33年に太田市と合併しています。新田郡といえばもちろん新田義貞のよう歴史に名を遺す武将もいますが、義貞の実弟である脇屋義助の屋敷跡は村内の脇屋地区にあります。この新田郡は上州の貧しい農村地帯の一つですが、江戸時代後期の任侠話には事欠きません。長男が家業を継ぐと、次男・三男は家を出て生きなければなりません。その時代に赤城颪(赤城おろし)の寒風が吹き荒れる冬は、耐え忍ぶだけの生活を余儀なくされたでしょう。家を去った男たちの中から、こうして国定忠治や、創作の木枯らし紋次郎が生まれたのでしょうか。名物の「空っ風」はいつの時代にも過酷で、その風土背景として重要な存在でした。田畑越しに向き合うと、夜の赤城山は巨大な壁のように見えるのです。

実際に少年時代の冬にはその厳しさを何度も体験しています。気分転換に深夜の畑に立つと、北に聳え立つ赤城山は、広大な裾野を張り出した秀麗なシルエットとは対照的に、肌を切るような寒風で襲ってきます。畑一面の葉を落とした桑の枝が、鞭のしなり音で荒れ狂うさまは、今でも忘れることができません。養蚕の衰退とともに、桑畑はすっかりなくなりましたが、冬の空っ風は変わらずに吹き荒れます。上毛三山の雄であり、関東平野を睥睨する赤城山には、今でも畏敬の念を抱くのです。

冬の赤城山全景
(太田市金山山頂より)
「私のデジタル写真眼 https://sdknz610.exblog.jp/」さんの許可を得て掲載。

赤城連峰の雄姿(右から)

黒檜山
駒ヶ岳
長七郎山
地蔵岳
荒山
鈴ケ岳
鍋割山

1828m
1685m
1579m
1674m
1522m
1585m
1332m

赤城山の一番の思い出は、高3時の夜間登山だろうか。クラスの数人を巻き込んで決行したが、伊勢崎市内の学校を出発して、 波志江→大胡→不動の滝→小沼→地蔵岳→大沼 を歩き通した。コンビニがない時代、道端の自販機を囲んで仮眠をとり、議論もしたが、地蔵の登りは皆無口だった。若気の至りとも言えるが、それはそれで懐かしい思い出である。

当時は春の田植えも秋の稲刈りも一族出揃っての作業でした。手伝いで参加したものの小学校低学年の私はすぐに飽きてしまい、遊びに熱中するのが常でした。田植えでは何人もの大人に混じって列を作るのですが、簡単ではなかった。一列一列を畦近くに陣取る男衆がロープを移していきます。並んだ列の中で大人は1尋(7~8苗)、子供は肩幅くらい(大体3苗)を植え込むのですが遅れます。そればかりか植えた苗が抜けて浮いたりしてくるのです。力が足りないことや指が短いことを言い訳にして抵抗するのですが、結局足手まといになります。水量が豊かな田植え時期の用水路では、よく小魚釣りをしていました。川に注ぎこむ大き目の水路では、一荷釣りで2尾の小鮒を釣り上げることもあります。伸びた草々で流れが淀み、深いところが狙い目でした。草のそばを狙うので根掛かりすることもあるのですが、2尾3尾が一度にかかる魅力には勝てません。

秋の稲刈り時はイナゴを捕りました。跳んだイナゴが稲に止まる瞬間を狙って捕まえます。稲をかき分けながら走り回ると面白いように捕まります。数時間で袋一杯になりますが、その後が大変で、羽や蹴り足を一匹ずつむしるのです。こうしてイナゴたちは大鍋一杯の佃煮になります。

その後興味を覚えた釣りを近所の上級生に教えてもらいながら、一緒によく蛇川に出掛けました。蛇川の合流部で14,5センチの鮒を釣ったのは5年生の頃だったと思います。3本つなぎの安い釣り竿が怖いくらいに撓りましたが、何とか釣り上げました。こうした釣りの最中には蛇をよく目撃しました。1~2メートル位の青大将やシマヘビですが、水面をくねくねと泳ぎ進む姿に、川の由来を重ねたこともあります。蛇川に伝わる民話があります。

(蛇川の由来: http://www.hunterslog.net/dragonology/DS/10205e.html

しかしその頃から蛇川は護岸工事が進み、多くがコンクリートの擁壁に変わりました。その後は魚影もなく波もたたない川に釣りに行くこともありませんでした。川に魚がいなくなり、田や畔にはカエルや水生昆虫が見えなくなり、農薬多用の農業や、流れを変える河川工事や護岸工事が加速化していった時代です。

田舎を出てからはお盆と正月の帰省くらいしか戻りませんでしたが、子供が成長するにつけ、その帰省の機会も無くなりました。

母が1999年末に亡くなり、長く闘病していた父も翌年1月に亡くなったのですが、父の葬儀で見た1シーンは忘れることができません。父が日中戦争に従軍して負傷したことは知っていましたが、詳しい話は何度父に聞いても教えてくれませんでした。ただ、父の腿にそれらしい傷痕を見た銭湯のテレビで、快傑ハリマオに歓声を上げている子供を、父はどう思っていたのでしょうか。

父の告別式の終わり近くで、真ん中にいた十人ほどが突然立ち上がりました。皆年老いた男性でしたが、その方々が父の棺に向き、身仕舞いを正して敬礼したのです。出征した同郷兵士の方々と後で知りましたが、こうして彼らは仲間一人ずつを見送り、別れを告げてきたのだと思います。何十年を経ても、彼らは異国の地で戦った仲間しか頼れず、耐え、支えあってきたのでしょう。過酷な戦いを余儀なくされ、家族や子供たちに話すことも叶わない記憶や苦悩を抱え込み、最後に棺となった仲間と向き合うことが使命だとしたら辛すぎます。彼らの体験が、父も参加していたはずの酒席でどう語られていたのかは判りませんが、今は語ることも、帰郷も叶わなかった仲間達がいたことは確かな事実です。子や孫に話すことのできない経験を抱えた彼らに、戦後は優しかったのでしょうか。その時に私が思い出したのは、就学前に子育て吞龍さんの境内で見た、白装束に杖を抱く傷痍軍人さんの姿でした。母は敬いながら小銭を入れていたようですが、負傷して帰還した父と巡り合った母には、他人事ではなかったのだと思います。

次は母の実家近くの渡良瀬川に少し触れたいと思っています。

2021 年 3 月

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